ここ何年か目につく
「感動よ、ありがとう」

「感動」って誰かに恵んでもらうものなのか。
障害や病と闘っている姿を観て
(24時間テレビ的なやつね)
誰かが死んじゃうシーンを観て
「涙ちょうだい、感動ちょうだい」って
本当、いやしい、あさましい。

(自分の親や愛する人たちが死ぬのを見て
誰かに「感動よ、ありがとう」ってお礼言われたら
あたし、その人の神経疑うよ。)

反感買うかもしれないけど
あたしはオリンピック、ワールドカップや
スポーツの大会で「感動よ、ありがとう」って
テレビ局やマスコミが煽るのも
視聴者が感謝するのも意味分からん。

自分も同じ競技をやっていて
その1点を取ることの大変さ
1秒を縮めることの苦難や喜びを共鳴したり
ずっと応援していたチームや選手が
活躍したり、成長する姿に
胸を打たれるのなら分かる。


でも、頑張ってる姿に「感動よ、ありがとう」って
世界レベルだったり、自分の時間や人生を懸けて
闘っているアスリートたちの「がんばり」と

自分の「感動」を同じにすんじゃねぇ、と。
言葉足らずだけど、「感動」禁止運動じゃないよ。
あたしだって、小説やマンガ、映画やドラマで
心つかまれるよ。涙流すよ。
ただ、「感動よ、ありがとう」って
分かりやすい涙の洪水が

本当に「感じる」心を奪っていってるようで。
まぁ、そこで泣ける人は、「幸せ」な訳で。

そんななか、中村うさぎさんの
「幸せになる条件って、“主観”という醒めない夢の楽園に
どれだけ安住していられるかってことだと思う」
「それこそが【エデンの園】よ」
って
言葉が、あたしの目に、心に突き刺さった

誰かに「与えてもらう」感動じゃなくて
面倒くさいほどに、自分の“感情”の動きを
見つめる中村うさぎとマツコ・デラックス


『うさぎとマツコの往復書簡』

この本ね、新聞や雑誌の書評にも載っていたんだけど
異形なふたりの面白おかしいエッセイみたいに紹介してて
それを書いた人たちは、何を「読んだ」のか?

文章を書くことを生業にして、おまんま食ってるんなら
中村うさぎとマツコ・デラックスの魂を売り渡した
この往復書簡から、
何も感じなかったのか?!て話ですよ。

男と女、そしてゲイという「性」
この国は何を得てきて、何を喪ってきたのか「政」
人生の価値と意味をどうして求め続けるのか「生」
魂を取引する神様はどこにいるのか「聖」

読みながら、あたしは
神様に何を売り渡して生きてきたんだろ?
そしてその“地獄”のなかにある“天国”を
それでも追い続けるのか、と自問タイム。


ノンケのみなさんも、これを読むと、おかまたちが
なんで毒舌を吐いて生きていくか
「治外法権」という形をとって
生き延びていくかが、分かりますよ。


あとね、あとね、あたしが大好きで何度も観てて
人生のベストテンに入る映画
『追憶』
ブサイクで面倒くさいヒロイン(バーブラ・ストライサンド)が
ノンポリの顔が美しい男(ロバート・レッドフォード)に
魅かれていくことに、自分を投影していたんだけど

4年前は「こう」思ってた。
マツコの「見方」で、膝を叩きまくりました。
(だから、おかまに人気の映画なのか!)
そ、そうなのか!!と自分の中のDNAが
粟立つっていうか、
覚醒していた遺伝子を、
マツコが「言葉」にトランスフォームしてくれた!喜び。


それでも、まだまだ分からないのが、自分なのだ。
あたしも「客観的」に自分を見られない人間だけど
「主観」に安住する“楽園”なんて追放されていい。